紀宝町指定文化財

京 城 跡 (みやこのじょうせき)

 三重県紀宝町パンフレットより

京城跡とは

 京城跡は、紀宝町の中央を流れる相野谷川の中流、相野(おの)川との合流地点の北側に位置する小高い丘にあり、かつれは北山方面への本街道であった相野谷筋を一望できる、戦略的に最適の地にありました。

 室町時代に築城されたと考えられているこの城は、海抜約70mあまりの山頂付近に設けられた区画を中心に、東西約450m以上にわたる大きさがあります。北からの敵の来襲に備え数々の工夫が凝らされているほか、当時としては数少ない石垣を用いた城壁も築かれていました。

 これだけの規模やつくりを持つ城は東紀州でも、熊野市にある赤木城、鬼ヶ城に次ぐものであり、歴史的、文化的にも非常に価値の高い城であるといえます。

 しかし、京城跡について記された文献は少なく、多くの謎に満ちた城でもあります。


京城跡の歴史

 相野谷川流域は室町時代以前は相野荘と呼ばれ、熊野三山の荘園でした。

 京城は、室町時代後半ごろ新宮の支配から独立した地域の有力者によって築城されたと考えられています。京城が築城される以前は、この山は地域の人々が墓地として利用していた「聖地」だったそうです。

 

 京城跡は、いつ誰が建てた?

 紀伊続風土記には、天正13年(1585年)に豊臣秀吉の臣下、堀内氏善の手によって建てられたとの記述があります。しかし、この書物は、天保10年(1839年)に完成の江戸時代に書かれたものであるため、真相は不明です。

 また、敷地内には文明13年(1481年)の舟形地蔵が存在することなどから、それより古い時代に建てられたのではないかとも考えられています。

堀内氏善ってどんな人?

 堀内氏善は、戦国時代末期、新宮を根拠に古座付近から紀伊長島付近まで3万石を支配した戦国大名です。

 氏善は新宮城主だった氏虎の次男として生まれました。熊野有馬家へ養子として送り込まれ、南牟婁郡、熊野市の大部分、尾鷲市の一部を手中に収めました。その後、父氏虎と兄氏高が相次いで亡くなり。家督を継ぎ新宮城主になりました。

 天正13年(1585年)および天正16年(1588年)に北山一揆が起きた際、その対策として京城を築城されたとされていますが、詳細は不明です。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方しましたが、戦場に到達する前に西軍の敗報を聞き帰参。その後、和歌山城主桑山茂晴配下に新宮城を攻められ、肥後の加藤清正のもとへ送られるまでの間、一時京城に滞在したとされています。

京城跡の位置

 京城跡は、紀宝町の中央を流れる相野谷川の中流域にある平山城跡です。相野谷川に、支流の相野川が合流するこの地点は、相野谷川流域の要ともいえる場所で、東・北・西の面には堀切・切岸・竪堀を造成しており、北山道を経由した北山方面からの攻撃に備えたものだと考えられます。